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様々な分野で生き生きと活躍されている女性たち。各分野のプロである彼女たちの目から見た、健康、ライフスタイル、キャリアについて、広報の女性スタッフがお話を伺うインタビューシリーズです。 >> インタビュー一覧
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Interview vol.9 ノンフィクションライター 小松 成美さん (前編)
ゼロから始まったライターへの道
最初の本を書く前は、やはり書くお仕事をされてたんですか?
最初は全然違いました。20歳でOLになりました。思い切りバブル時代を謳歌して、お買い物をいっぱいして、楽しく過ごしていました。でもその一方で、そんな自分が許せなくて病んだ時代でもあったんです。
というと?
私は大学受験で第一志望のところに入ることができなかったのがショックで、競争を避け専門学校に進んで、その当時注目されていた広告業界に入ったんです。中堅の広告代理店でしたが、当時はお茶を入れてコピーをとって、書類を綴じたり、ちょっとワープロで文章を打ったりするだけで、お給料がもらえた。それでデザイナーズブランドで買い物をして、華やかに着飾って。それはそれですごく楽しかったんですけど、自分が培ったものは何ひとつないし、このままじゃ自分にどんな可能性があるのか、パワーがあるのか、どんなことができるのかわからないまま人生が終わっちゃうんじゃないか、って思い始めたんです。それで、今度はその会社を辞めてTBSの報道部でアルバイトを始めたんです。
おいくつぐらいのときですか?
23から25ぐらいまでです。JALの御巣鷹山の墜落事故の直後に入って、スペースシャトルの最初の爆発があったり、成田空港開港前の三里塚闘争があったり。報道ですから、物凄い活気のある現場の中にいたんですよね。ところが、今度は逆に、「ここにいても自分は何もできない。同じ時間を共有していても、自分の代わりはいくらでもいるんだ・・・」と考えるようになった。それで、25歳のある日、メニエル病っていう目まいの病気になっちゃったんですよ。しかも重度。救急車で運ばれて、その後も一年ぐらいは家に引きこもってひとりで本を読んでいました。そのときは、「こんな自分なんて価値がない」、「ゼロに戻してやり直したい」と思ってしまって、漠然とですが死をイメージすることもありましたね。
そういう状態から抜け出したきっかけはありましたか?
このままでは生きていてもこんな時代に生まれてきたことを恨んでしまう。だから、どんな失敗をしてもいいし、やっぱりだめだったと思ってもいいから、この時代に生まれてきて本当に良かったと思えるようなものを探そうと思ったんです。少しずつ身体も治って来ていたし。それで、ありとあらゆるアルバイトを始めたんですよ(笑)。部品配送の仕事をしたりしたんですが、それがまたリハビリになったんでしょうね。私のような者に、「ご苦労さま、気をつけてね」と言う人もいれば、あいさつもしないし、乱暴な言葉を投げかける人もいるんです。そういうときに、人間っていろいろなんだな、と考えました。それから、本を読んだり、名画座に通ったりして「ああ、世界にはこんなにたくさんの人生があるんだ」「私がもし第二次世界大戦の時代に生まれていたら、こんなことを悩むことすらできない人生があったかもしれない」とか想像したり。そんなふうに心が少しづつ潤っていくと、「もうここまできたら、一番好きなものを仕事にしよう」と考えられるようになったんですね。じゃぁ、一番好きなものは?と考えると本だった。だったら文章を書く仕事に就こう!と単純に発想したんです。
現在のキャリアの始まりですね。
今思うと、もう恐ろしいですね。無知のパワーですよ(笑)。原稿を書くということの大変さを知っていたら絶対に怖くてできませんでした。たまたま先輩がいた『Hanako』っていう人気の雑誌でライターさんが足りなかったので、アルバイトライターとして、初めて原稿用紙の書き方とか、アポイントの取り方とかを教えていただいて、原稿を書き始めたんです。そうしたら、どうしても人を取材したいと思うようになったんですね。沢木耕太郎さんや山際淳司さんのスポーツドキュメンタリーを10代の頃に読んでいて、ものすごく感動していたので、スポーツをテーマにした原稿を書きたいと考えるようになりました。
それが『Number』のお仕事につながっていく。
私は自分が書いた『Hanako』を数冊持って、『Number』の編集長のところに会いに行ったんですよ。その方のところには若いライターとか作家志望の方がたくさん来るわけですよね。でも、もちろんその誰もが書けるわけではないから、私が行ったときも、編集部には「ああまた勘違いしたお姉さんが来ちゃったよ」みたいな雰囲気が漂っていました(笑)。でも、面接を受けて、今まで本だけは本当にたくさん読んできたので、その想いを話したら、編集長が突然、「じゃ君、うちで連載してみる?」って、コラムの連載の仕事をくださったんです。なぜ、こんなチャンスを突然与えられたのか。周囲も、私も、ただただ“目が点”でした。
すごい!記念すべき初連載は何だったんですか?
アスリートの食卓を取材してエピソードを原稿用紙3枚にまとめるっていう連載だったんですけど、本当に大変でした!私についてくださった新谷さんという新人編集者は編集者魂がある方で、何度出してもOKが出ないんですよ。ハーってため息をつかれて、「あまりにもつまらなくてタイトルがつけられません」って言われたこともありました。でも、私はもう30を迎えようとしているときだったので、ここでまた自分がやりたいと思って飛び込んだ世界から逃げたら元も子もなくなると思い、毎日必死で、文藝春秋の資料室に閉じこもり、本当に泣きながら書いていました。
ふんばりどころだったんですね。
あのとき投げ出さなかったことに対しては、ちょっとだけ自分を褒めたいなと思いますね。編集者が帰った深夜、守衛さんとかが、「これ食べて頑張りな」と言っておせんべいとかくれたんですよ(笑)。そんな日を半年ぐらい過ごしたんですが、あるとき新谷さんが「うーん、まあまあ読めますよ、何を言いたいか初めてわかりました」と言ってくれたんです。そこからですね。原稿に何が求められているか、考えられるようになったのは。その連載は2年ぐらい続けました。
ライターとしての礎になっている時代なんですね。
取材を受けてくださる方々は、とても親切に丁寧に対応してくださり、心からいろんな話をしてくださるわけです。でも、それをたった原稿用紙3枚にまとめて、第三者に伝えなくちゃいけない。それがどういうことなのかを、まったく知らずにその世界に入っちゃったわけです。だから、本当にあの時代の『Number』編集部は、私の教室でしたね。その人たちとは今でも本当に仲が良くで、何かあれば助けてくださるし、真っ先に私の作品を読んで応援してくださいます。
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